令和を駆け抜ける

誣告と讒言を憎む評論。

赤穂事件(忠臣蔵)の殿中刃傷

昨日は、旧暦の3月14日だった。

 

旧暦の3月14日は、江戸時代、元禄14年の頃、浅野内匠頭による殿中刃傷があった。

 

 

 

私は、なぜ浅野内匠頭が斬りかかったのか、気になっている。

 

浅野内匠頭が認めたことは「遺恨」があるということ。

 

それ以上の動機は語らなかった。

 

 

 

その遺恨とは何か。

 

語らないのだから、客観的状況から察していくしかない。

 

 

 

浅野内匠頭吉良上野介の部下として、朝廷からの勅使と院使の接待にあたった。

 

この接待の最後の日、浅野内匠頭吉良上野介を斬りつけた。

 

この接待のときに何かあった、と理解するのがよいだろう。

 

 

 

では、何があったのだろう。ここからは想像だ。

 

浅野内匠頭は、山鹿素行という尊王論的な軍学者の学問、山鹿流兵法の門下生であった。

 

山鹿素行といえば、「常の勝敗は現在なり」という言葉が有名だろうか。

 

ちなみに、かの吉田松陰も山鹿流兵法を学んだ門下生である。

 

浅野内匠頭尊王思想を持っていたのではないだろうか。

 

それゆえに吉良に対して勅使・院使の接待について恨みを持ったのではないだろうか。

 

 

 

このような想像に駆り立てる理由はほかにもある。

 

浅野内匠頭吉良上野介という呼び方だ。

 

内匠頭は官位の一つであり、天皇の家臣を表す。

 

他方、上野介とは、上野介という地域での官位に過ぎない。

 

吉良には侍従という天皇の側近としての官位も有していた。

 

にもかかわらず、あえて上野介と呼ばれている。

 

ちなみに、徳川は実質的には日本を統一支配したといえるものの、形式上では江戸という一地域を治める者に過ぎない。

 

すなわち、浅野内匠頭吉良上野介の対立は、天皇対地方あるいは徳川という構図で理解されたと思うのである。

 

このような構図での理解は、浅野内匠頭尊王論的な思想にあることを前提にしているのではないか、と思うのである。

 

 

 

忠臣蔵は江戸時代から人気があったという。

 

武勇を讃える、忠誠心を讃える。という面もありながら他方で、尊王の精神を忘れることなかれという隠れたメッセージもあった。というのが私の理解である。