家族制度に関する随筆(2)
2、家族の在り方が多様化しているから新しい家族制度が必要!?
(1)そもそも、日本における家族の在り方とは何か。中学校やらで習ったことを覚えている方もいるかもしれない。かつては大家族といって祖父母とも同居したが、後に都市圏で働き、都市周辺の住居へ帰るという生活様式となり、核家族が増えた。核家族とは親と子が同居する人達だ。
よくたとえに出されるのは、ちびまる子ちゃんの家族が大家族で、クレヨンしんちゃんの家族が核家族だ。
新しい家族制度を!という声があり、新しい家族制度を設けるべき理由として家族の在り方が多様化した、と主張される。
日本における家族の在り方について、私は現在の日本の家族が本来の在り方を忘れているものとみている。
日本人が本来の家族の在り方を忘れかかっている間に、別の制度にすげかえてしまおうというように見受けられる。
今回の新型コロナウイルス騒ぎのなか、武道やスポーツなど、鍛錬の欠かすことのできないものは、家族という社会の最小単位は家族同士で鍛錬を行うことができる。
もちろん、同居していても家族の誰かが感染してしまえば隔離が必要になるけれども、そうでない間はもとより同居しているのであるから接触をしてもよいだろうということである。
この家族がいるのといないのとでは随分と違うのではないだろうか。
他方において、たとえ家族であっても、感染拡大のおそれがあるから、下宿などしていて同居していなかった者が実家に帰るなどというのは好ましくない。
こうしてみると、同居していない家族と同居している家族ではずいぶんと違う。
大家族と核家族の違いを強調するのにはこのような非常時の支え合いができるだけではなく、普段の生活においても家族が扶養や心の安定などそのほか様々な支え合いをするものだ。
思うに、経済成長期までほとんどの女性が家庭にいたのは、家族への細やかなケアができたのは女性だったからではないだろうかと思う。
なぜ女性がそのようなケアができたかというと、まさしくそういうケアができるような教育があったからであろう。
かつて女子教育というものが存在し、女子教育においては家政というものがあった。
家政というのは家の中における労働全般を管理し、遂行することをいう。
ここでひとつ疑問がある。この女子教育は明治維新以後施されてきたものだ。前回の記事でも書いた通り、明治維新に伴って近代化がされ、その際に採用された近代民法は夫が家族を統率するもののはずである。
しかし、実際に統率するのは妻であった。しかも、かつての家制度においてさえ、女性が家長となることも不可能ではなかった。
これは、もとより家を夫の統率に置くということが日本においていまいち受け入れられていなかった論拠となる。
国政に喩えれば、妻が内閣総理大臣であって、夫は外貨を稼ぐ民間企業であったり渉外を行う外交官よくて外務大臣だ。条約の締結には少なくとも内閣の意思決定が必要だ。妻が財布が握っているとか、妻のことを大蔵大臣と呼ぶといったことはこういう面から来る。
※大蔵大臣というのは現在の財務大臣のこと。
このような実態を踏まえれば、女性の社会運動などと言って、女性が何か被害者であるかのような妄言は理解しがたい。家制度においてさえ、仮にある女性が家政を苦手としたとしても、その責任は夫の肩にかかってくるシステムになっていたわけだ。
では、かつてのように女子教育を施し、女性が家政を勝ち取る形が家族の在り方なのかと問われれば、それは大いに疑問である。
なぜなら、家政は変わらず家族の幸福のために重要なものではあろうが、女性が懸命に勝ち取らずとも、夫婦は対等であり、家庭の崩壊による不利益は双方が受けることになる。
家庭が家庭としての機能を失っている場合、その家庭を崩壊家庭と呼ぶ。
崩壊家庭において他方は平気な顔をすることもあるだろう。
このように考えると、家政教育は男女ともに必要であって、互いに支え合うのがもっとも自然な形であろうと思える。もちろんそれは家制度においてさえも同じである。
ここまでつらつらと書いてきたことは、家族が同居することで家庭ができ、その家庭の重要性を強調するがために家政について検討した、という文脈のつもりである。
(2)ここでやっと元の話に戻るが、新しい家族制度が必要な理由は、家族の在り方が多様化しているから、だそうだ。
これだけでは意味がよくわからないが、家制度の想定したような夫中心の家族や、現在の核家族のような夫婦と親子からなるという標準的な家族像を想定した規律は役に立たない、のだそうだ。
説明を読んでも意味が分からないかもしれないが、察するにシングルマザーやシングルファーザーを想定しているのだと思う。
家事育児労働は家政婦や保育所などがあれば足りるので、自らの家政能力に頼る必要はないという理解のようだ。
しかし、我々は感染症が拡大し、月単位ないし年単位で家政婦や保育所を利用できないときでも生活せねばならない。
こうして考えてみると、家政が生活関係の根幹を成すことがわかる。当然だ。ストレスのない生活をするには家を清潔にしなければならない。ストレスのみでなく健康面も含めてまっとうな食事も必要だ。かつては隠居したあとの祖父母も家政を手伝ったりしただろう。
また、育児に関しても家族の絆の強さがなければ家庭教育はより難しくなる。
相手が子にせよ、親にせよ。自分のために色んな事をしてくれている人が自分のために叱責するからいやいやながらも聞くのであって、そのような関係性になければただのうっとうしい小言である。
このように考えると、家事育児を家庭の外の者に委ねることがあったとしても、それはあくまで補助的なものであって、家政の中心は相変わらず家族に置かれている。
それはシングルマザーやシングルファーザーにおいてさえも同じである。
まして育児をほとんど赤の他人に任せるなど、我が子に何かあったら、あるいは何かしたら、最終的に誰か他人のせいにすればいいと思っているのではないかと疑わざるを得ない。
それでも親1人と子のみの家族、シングルマザーやシングルファーザーが標準的な家族像なのだろうか。助けとなる兄弟や祖父母でもいれば別だが、そうでない限りあまり現実的ではないと言わざるを得ない。
ここで、複数の奇妙な現象を思い起こす。
1つは、妻の不貞が明らかとなり、弁護士に相談して妻が子を連れ去る。親権を得れば養育費を取ることができるからだ。そして、夫婦が離婚し、子と同居しているという理由で妻が子の親権を得る。というケースをよく聞く。
このとき、シングルマザーとなるわけだが、これを標準的な家族像として据えようとしているのだろうか?と疑いを深める動機がある。
その動機とは2つめの現象、選択的夫婦別姓制度というやつである。
仮に、この制度の下で別姓を選んだとする。上記のケースにおいて実にスムーズにシングルマザーとなることができる。結婚していれば推定認知により夫の子となる。だから夫から養育費を得ることができる。
そして3つめの現象。頑として共同親権を認めない勢力がいる。共同親権が議論されることはあるが、日本では離婚の際には単独親権となる。普通に考えれば、単独親権の趣旨は再婚後も新しい家庭の子として生活できるようにするためのものであろう。そうだとすると、再婚しない間は例外的に共同親権を認めてもよいはずである。しかし、その勢力はそれを決して許そうとしない。
4つめの現象。ポリガミーやポリアモリーという考え方を推奨する勢力がいる。はっきり言って今の日本ではおよそ受け入れられない多重婚を推奨する勢力である。
もし多重婚が可能となれば、上記に示した例外的な共同親権が仮に制度として認められたとしても、親権を奪うことができる。
そもそも、多重婚によって日本の家族観を徹底的に破壊することができてしまう。そうすると家族の絆や深い愛情、そういったものが根本にあることによって築かれた社会秩序が破壊される。
この点についてスウェーデンが比較にあげられることがある。
http://www.seisaku-center.net/node/266
上記リンクの菱木昭八朗教授の発言で孫引用となるが、日本政策研究センターの記事を引用する。「子どもにとって必要なのは両親の愛情であり、よりよき家庭環境である。最近のスウェーデンの青少年犯罪統計の示すところからもわかるように非行青少年の発生源は欠陥家庭にあると言われている」という。
誰かの陰謀だなどと軽薄なことを言うつもりはない。
だが、日本という国を危険に曝す方向に進める気もない。
家庭が家族の心の安定に役立つことは人類共通の見識だ。その家庭を安定させる方向に政策をとっていくべきだろう。
せっかく100年以上かけて同姓が定着した日本においては、同姓とすることのハードルは極めて低い。そのなかで選択的夫婦別姓という政策は家庭の安定とは逆方向に推進しようとするものであってまったく合理的なものということはできない、さらにいえばそのような政策を支持することは理性的でないといわざるをえない。
家族制度に関する随筆、おわり。