令和を駆け抜ける

誣告と讒言を憎む評論。

家族制度に関する随筆(1)

論文のようなタイトルですが、そこまで大げさなものではありません。

家族制度に関する書籍を読んだときに思ったことを脱線しまくりながら書く程度のものです。

 

1.夫が家族を統率する!?

 

(1)何気なく家族法の基本書を読んでいると、ヨーロッパ諸国をはじめとする近代民法は夫が家族を統率するべきとする家族制度になっていたとあり、このことから大日本帝国はその国際潮流に合わせただけだとわかる。

これが日本は女性に差別的な国だった!と誹りを受ける不可思議な現象の正体である。

 

そういえば、明治では民法の制定をするよりも、民事訴訟法の制定の方が早かったと記憶する。

これは司法権の行使を確立することで、近代国家としての体裁をいち早く整える目的に出るものだった。

そこまでしてなぜ国際社会に参加せねばならないかについては色々言えよう。

 

話を戻すが、近代民法は夫が家族を統率することで、男性の財産権を守ろうとするものであったという。

なぜ「男性の」ものに限定するのかはよくわからない。

ある基本書によれば、労働は男がするものであるがゆえに、夫は労働し、妻は家事労働することになる。それゆえに「性別役割分業構造」が生じるのだという。

 

・・・大正時代、日本では工業化が進み、工場では男性も働いていたが、女性も工場で働き熟練の職人となったりもした。

私は機械化によって生産ラインが安定すると女性が活躍しやすくなるとみている。安定するまでは力仕事に頼るところが大きく、男手が求められて男性中心となりがちなのだと理解している。

このように考えれば、生産ラインの安定しやすいあるいは機械化しやすい産業が増えれば女性の活躍の場は増えるのではないだろうかと考えることもできる。

ここまで言ってみると、「そもそも工業ばかりが仕事ではない」と思うかもしれないが、現在においてさえも外貨を稼いでいる産業はほとんど工業である。そのため、工業によらねば日本の大いなる発展は望めない、ということがすでにある程度の証明がなされたと思う。

いずれにせよ、男性ばかりが働くべきというのは時代によって異なると思う。

平成のころ一時話題になったのでご存じかもしれないが、今の日本は大正~昭和初期頃にそっくりという話がある。関東大震災世界恐慌の影響で不況やデフレに見舞われたことに照らしてのものだ。

そういう時代には女性が労働者として活躍する者なのであろうか。大正頃、女工が活躍したと同じように、今、女性が労働者として活躍する時代なのかもしれない。

 

元の話に戻るが、そういったわけで、時代によって男性が労働者になったり女性の方が労働者になったりして変わるものだと理解しているので、「性別役割分業構造」という言葉にいまいちピンと来ないところがある。

 

そもそも、機械化が不十分なときには腕力のある男性が労働力として重宝される、とすると腕力のない男性はどのみち労働力としては要らない。

そうすると「性別役割分業」ではなく「腕力役割分業」が正鵠である。学問的な用語であるならより正確な表現を用いた方が良いと思う。

 

(2)と、ここまで考えておいて、「性別役割分業構造」を別の角度へと考えたくなる。

 

今見たような、女性が労働者として活躍する時代は、どちらかというと経済的にはあまりよくない時代のように思う。

どちらかというとどころではない。大正時代の平均寿命は43歳かそこらだったりする。これは過酷な労働や子だくさんのためだろう。

もちろん、その過酷な労働と子だくさんのおかげでその後の繁栄があったわけだが・・・。大正時代は極めて過酷な時代。現在も経済的には決していい時代とはいえないだろう。この失われた20年の遅れを取り戻すことは、大正時代と同じように臥薪嘗胆を合言葉に耐え抜くような、過酷な時代を経験するくらいで取り組まなければ不可能である。

いわば、憚らずにいえば、今の時代はその傷を見ないことにしてなんとなく過ごそうとしているわけだ。

 

こういったことに思いを馳せると、「性別役割分業構造」が自然と現れて維持されている社会の方が経済成長のスピードが維持される社会なのではないか?という疑問がわいた。

もしそうなら、「性別役割分業構造」が現れることを懸命に叩く人達は、日本の経済成長を懸命に妨害する人達ということになる。

だが、「性別役割分業構造」が我々の幸福に役立つと考えるのは、やはり現代においては突飛な考えに過ぎないと思い至る。

私は男の方が基本的に腕力があるということを前提に「性別役割分業構造」を理解した。もちろん他の差異ないし傾向もあるかもしれないが議論が複雑になるので腕力だけに絞る。工業において腕力が活躍する場はまだ多くはあるが、そうではない場もずいぶん増えた。今に始まったことではないが、むしろ機械が産業の中心的役割を果たしているといえる。

そうすると、一般的には「腕力役割分業構造」の考え方も役に立たないのが現在なのであって、結局いらないものなのかもしれない。

 

「一般的には」と留保を付けたのには理由がある。

山林を利用する権利に入会権というのがある。ある村においては、この入会権を持つ者を長男とする慣習があった。

山林の入会権を使う者が一般に腕力のある者とする、という規律は不合理なものなのか?私には不合理には思えないのだが、判例はこの慣習を否定した。

法的には慣習は一般的な規則と違うがために、慣習として認識されるのに、その特性や背景に迫ることなく否定するのはばかげている。

 

思ったことはまだまだあるのだが、すでに長く書いたのでひとまずここまでにする。