令和を駆け抜ける

誣告と讒言を憎む評論。

平成30年 民事系第3問(民事訴訟法)答案練習

設問1

第1 課題(1)

 1 AのBに対する訴えについて

 (1) Aが不法行為による損害賠償請求訴訟の提起をした場合、この訴えは重複訴訟にあたり不適法となるか。

 (2) 142条が重複訴訟を禁止する目的は、訴訟不経済の防止、応訴負担の軽減、裁判の矛盾の防止にある。

 この目的を達するためには、両事件における当事者の同1性と訴訟物の同1性が認められる訴えが禁止すればよい。

 ただし、これら要件に該当する場合であっても、民事訴訟は権利実現のための制度でもあるから、重複訴訟の禁止の目的に照らして訴えの適法性を個別具体的に判断し、できる限り不適法とすべきではない。

 (3) 当事者の同1性についてみるに、Bの提起した訴えの当事者はAとBであり、Aの提起しようとする訴えの当事者もAとBである。原告と被告が入れ替わっているだけで当事者は同1である。

 (4) 審判対象の同1性についてみるに、Bの提起した訴えの訴訟物は本件事故によるAの不法行為による損害賠償請求権であり、Aの提起しようとする訴えの訴訟物も本件自己によるAの不法行為による損害賠償請求権である。

 Bの提起した訴えの訴訟物は150万円を超えない部分であり、他方、Aの提起しようとする訴えの訴訟物は全額部分である400万円であるから、両訴訟物には250万円分の重なりが認められる。

 よって、訴訟物の同1性も認められる。

 (5) しかしながら、重複訴訟の禁止の目的に照らし、訴訟不経済や応訴負担の増加、裁判矛盾のおそれ、これらがない場合には重複訴訟の禁止にあたらず、不適法ではない。

 そこで、反訴についてみるに、反訴は公平のために被告にも関連する請求の追加を認めるものであり、原則として訴訟不経済を回避し、応訴負担の増加もなく、裁判矛盾のおそれもない。

 本問においても、審理が1体になされるのであるから訴訟不経済にはならず、同1の裁判所で併合審理を行うのであるから、応訴負担を増加させるものでもないし、裁判矛盾おそれもない。

 よって、Aは反訴としてBを被告とする不法行為による損害賠償請求訴訟を適法に提起することができる。

 (6) したがって、AのBに対する訴えは適法である。

 2 Cを共同被告とすることについて

 (1) 上記を踏まえれば、Aが反訴においてCを共同被告として引き入れることとなるため、いわゆる明文にない主観的追加的共同訴訟となる。 

 明文にない主観的追加的共同訴訟を認めるにあたって緊張を要する理由は、審理の進行が追加される訴訟当事者にとって不意打ちとなるものではないかという点にある。他方において統1的解決のためには共同訴訟を認めるべきであるといわねばならない。

 そのため、明文にない主観的追加的共同訴訟が認められるためには、訴訟当事者の利益を害する程度に審理が進行していないこと、共同訴訟としての提起可能な要件を充足していることが要求される。

 (2) そこで、審理の進行についてみる。

 本問ではいまだ第1回口頭弁論期日に至っておらず、反訴においてCが共同被告とされたとしても既に審理が進行していてCにとって不意打ちとなるということはない。

 よって、いまだ訴訟当事者の利益を害する程度に審理が進行していないといえる。

 (3) 次に、共同訴訟として提起可能な要件を充足しているかをみる。

 通常共同訴訟が問題となるか必要的共同訴訟が問題となるかは、合1確定の必要があるかどうかで判断するものであり、合1確定の必要のないものは通常共同訴訟となる。

 AのB及びCに対する訴えは、いわゆる共同不法行為に基づく損害賠償請求訴訟であるから、合1確定の必要がないといえるため通常共同訴訟が問題となる。

 通常共同訴訟として訴えの提起が許される要件は、訴訟の目的となる権利義務が事実上、法律上同1の原因に基づくことである(38条1項前段)。

 38条の制度目的は統1的解決をするために共同被告とすることができるようにするところにある。そのため、権利発生原因となる共同不法行為がある場合には、共同不法行為者を共同被告とすることができるというべきである。

 訴訟の目的となっているのは共同不法行為に基づく損害賠償請求権であり、ここでの共同不法行為はB及びCによってなされたものである。そのため、訴訟の目的となる権利義務が事実上かつ法律上同1の原因に基づくものといえるのであるから、B及びCを共同被告とすることができる。

 (4) したがって、Aの反訴においてCを共同被告とすることは、明文にない主観的追加的共同訴訟として認められる。

 

第2 課題(2)

 1 Aが甲地裁において訴えを提起することは、重複訴訟の禁止に反するかどうかが問題となる。

 (1) 重複訴訟の禁止にかかる要件は上記第1と同様に充足し、訴えが不適法となるかの判断にあたっても同様に重複訴訟の禁止の目的に照らし実質的に判断すべきである。

 (2) 訴訟不経済や応訴負担の増加、裁判矛盾のおそれについて

 Bが乙地裁に提起した訴えを甲地裁に移送すれば、弁論を併合することができるため、訴訟不経済や応訴負担の増加もなく、同じ官署としての裁判所での訴訟係属となるから裁判矛盾のおそれもない。

 したがって、Bの訴えが甲地裁に移送され、弁論が併合されれば重複訴訟の禁止に抵触することにはならない。

 2 そこで、移送について述べる。

 (1) 17条による移送は、事件の迅速かつ終局的な解決と手続が衡平に経られることを目的とする。そのため、17条の移送が認められるには、当事者間の衡平を図るために必要があると認められること、当事者の申立てまたは職権による決定があればよい。

 (2) 本問を見るに、Bの訴えについて移送が認められなければ、先に訴えを提起してしまえば有利な裁判所にて事件が係属され、A及びCの居住地に近い甲地裁に係属させることができる地位を消滅させる結果となり、当事者に衡平を欠くこととなる。

 (3) また、事件の終局的解決という観点からみると、Bの提起した訴えにおいては訴訟物となっていない損害賠償請求権の150万円以内の部分については訴訟物に重なりが認められないことから、終局的解決のために移送を認め、後訴と弁論の併合をして審理すべきであるということができる。

 さらに、Bの訴えとAの訴えとでは判決の効果が異なり、Aの訴えは給付判決であって債務名義を得ることとなる。この点からもBの訴えとAの訴えは併合審理されるべきであるといえる。

 (4) なお、Bの訴えについてはいまだ第1回口頭弁論期日を経ておらず、審理が進んでいないことから、Bにとっての不意打ちにもならないだけでなく、Aの訴えによって2度手間となり迅速な解決を害するということもないといえる。

 (5) したがって、移送は認められるべきである。

 3 弁論の併合が認められるには、請求の併合が認められなければならない。

 請求の併合が認められるには、原則として同種の訴訟手続であることが認められれば足りる(136条)。

 Bの訴えとAの訴えはいずれも民事通常訴訟であるから、同種の訴訟手続である。

 よって、請求の弁論は認められ、弁論の併合が認められる。

 四 したがって、Aは甲地裁において適法に訴えを提起をすることができる。

 

設問2

第1 220条4号ハ

 1 Aの診療記録に関する文書送付嘱託ないし文書提出命令の申立てについて、220条4号柱書における1般義務文書として文書提出義務が認められるかどうかにあたり、同条同号ハにおける197条1項2号に規定する事実で黙秘の義務が免除されていないものにあたるかどうかが問題となる。

 2 そもそも、1般義務文書として文書提出義務が認められるとすべき理由は、真実発見を目的とする適正な審理の実現を確保するところにある。

 このような制度目的にありながら、220条4号ハにおいて医師の職務上知り得た事実で黙秘の義務を免れていないものが記載された文書について例外的に文書提出義務を免れるとする。その理由は、患者として診療を受けた者の秘密の利益を保護することによって専門職業の信頼を確保することで専門職業の存立を保護するべきところにある。

 しかしながら、秘密の利益を受ける者が訴訟当事者となっている場合には、その訴訟当事者が提出義務を負うときには文書所持者は220条4号ハにいう職務上の秘密を理由として文書提出を拒むことができないと解する。

 3 Aの診療記録はプライバシー権の観点から秘密の利益の要保護性が認められうる。

 しかし、Aの診療記録は1部がA自身によって書証として既に提出されている。また、本問は不法行為による損害賠償請求権が訴訟物となっており、損害額が争われているのである。

 損害額は損害の程度との因果関係によるのであるから、因果関係についての真実発見の要請は極めて高いものといわなければならず、因果関係を明らかにするべく診療記録全体の提出が認められるべきである。

 よって、AはD病院の診療記録について提出するべき義務を負っているということができる。

 4 したがって、D病院はAの診療記録全体について提出する義務を負う。

 

第2 220条3号前段

 1 220条3号前段によれば、利益文書の文書所持者は文書提出義務を負う。

 220条3号前段は、挙証者の利益のために作成された文書が挙証者のために利用することができることを目的とするものである。

 よって、利益文書に該当するというためには、その文書が挙証者の利益のために作成されたことを要する。

 ここにいう挙証者の利益のためとは、専ら挙証者の利益のためという意味ではなく、文書作成の目的の1部が挙証者の利益のためであれば足りる。

 2 診療記録を作成する目的は診療行為の適正の確保や客観的な症状・容体と診療行為の因果関係の挙証のためというところにある。

 因果関係の挙証は被害者のみが行うばかりではなく、加害者の利益もそこに含まれるものということができる。

 3 そこで本問をみるに、Dの作成した診療記録は被害者Aによる因果関係の挙証のみならず、加害者Bによる因果関係の挙証のために利用する利益も含まれているということができる。

 4 よって、Dが診療記録を作成した目的の1部には加害者Bの利益も含まれているということができる。

 5 したがって、Dの診療記録はBの利益文書にあたるということができるため、Dは診療記録全体について提出する義務がある。

 

設問3

 第1 (ア)について

 補助参加の申出は訴訟行為と共にすることができる(43条2項)。また、補助参加人は訴訟行為として上訴の提起をすることができる(45条1項)。

 したがって、(ア)の理由は失当であるといわざるをえない。

 第2 (イ)について

 Bが補助参加人として認められるかどうかが問題となる。

 1 補助参加の制度目的は、訴訟の結果について利害関係を有する者に訴訟手続に関与する機会を与えることにより、主たる当事者を有利にすることで真実発見に資することにある。

 補助参加が認められる要件は、他人間の訴訟の存在、訴訟の結果について利害関係を有することである。

 (1) 他人間の訴訟の存在

 本問を見るに、BはA及びC間の訴訟について補助参加するものであって、他人間の訴訟が存在している。

 (2) 訴訟の結果について利害関係を有すること

 ここにいう訴訟の結果についての利害関係とは、判決により、補助参加人の法律上の地位に対する事実上の影響力を有することをいう。

 BはCと共同不法行為をしたものであって、BとCは連帯債務を負うという関係に立つものである。

 そのため、Bは単独で責任を負うよりもCとの連帯債務により責任を負う方が請求を受ける不利益が軽くなる関係にある。

 すなわち、Cの共同不法行為が認められる際には、不法行為者というBの法律上の地位に対して連帯責任となることにより請求を受ける不利益が軽くなるという事実上の利益が存在する。

 よって、Bは補助参加の利益を有する。

 (3) したがって、Bは補助参加人として補助参加しうるのであるから、(イ)については妥当ではない。

共有物の変更や管理、保存についてと共有者単独による妨害排除請求の基礎理論

共有物の変更や管理、保存についてと共有者単独による妨害排除請求の基礎理論をまとめる。

 

1、民法251条及び252条の解釈にあたってはこれら各条文に一貫した理論があるものととらえる。

 

2、251条

 251条によれば、共有物の変更にあたっては共有者全員の同意を要する。

(1)共有物の変更とは、目的物の性質や形状を変更することをいう。

具体例としては、共有物全部の譲渡、処分、これらの取消、解除がこれにあたり、山林の伐採など土地の形状の変更もこれにあたる。

(2)共有者全員の同意が必要とされる理由の説明は2通りあり、1つは持分権の行使といえども共有権の行使に外ならず、他の共有者全員の同意が要求されるとされる。

 この見解からは251条が原則を定める規定となる。

(3)別の見解によれば、持分権は各共有者の権利に過ぎず、権限付与なく権利を行使できるはずである。しかし、他の共有者に影響を及ぼすものであるから、他の共有者の同意が要求されるという。この見解からは251条は例外を定める規定となる。

(4)共有物の変更をするには、共有者全員の合意を要する。(3)の見解を採る場合には次のような説明を要する。すなわち、共有物の変更は目的物の性質や形状を変更するものであり、他の共有者への影響が大きいといわざるを得ない。そのため、251条は共有者全員の合意を要求するのである。

 

 

3、252条本文

 252条本文は、共有物の管理を定める。共有物の管理にあたっては共有者の持分の価格の過半数の同意を要する。共有物の変更におけるよりも緩やかな要件となっている。

(1)共有物の管理とは、目的物の利用・改良にあたる行為をいう。

 管理行為の具体例としては、賃貸借契約の締結や取消・解除、使用貸借契約の締結や取消・解除がある。

(2)目的物の利用・改良行為は目的物の本来の用途として権利を行使するものであり、他の共有者への影響はあるけれども、共有物の変更ほどの制限は必要ないといえる。そのため、各共有者の持分の価格の過半数で足りるとされる。

 

4、252条ただし書

 252条ただし書は共有物の保存行為について定める。目的物の保存行為は各共有者が単独ですることができる。

(1) 保存行為とは、目的物の現状を維持すること、あるいは共有者の利益を保全することを広く含む。

 保存行為の具体例には、目的物の修理・修繕、腐敗しやすいものの売却、返還請求、妨害排除請求、抹消登記手続請求などがある。

(2)共有物の価値を維持するばかりであるから各共有者が単独ですることができる。

 

5、共有者単独による妨害排除請求

 共有者が単独で妨害排除請求など物権的請求権を行使するにあたっては、2通りの法律構成がありうる。

 1つは保存行為としての妨害排除請求の行使だ。もう一つは持分権に基づく妨害排除請求権の行使だ。

(1)まず、保存行為としての妨害排除請求権の行使をみる。

 保存行為も共有権の行使を伴うのであるから、あるいは他の共有者に影響を及ぼすものであるから、原則として保存行為が共有者全員の同意のもとなされるべきである。

 この理解を踏まえたうえで、252条ただし書が例外的に各共有者が単独で保存行為をすることができるものとして権限を付与したものと理解する。

 そうすると、252条により、保存行為は共有者全員の同意のもとにしたものと同様に扱うべきであるから、その保存行為の効果も他の共有者全員の同意があるものと同様の効果があるというべきである。

 そのため、保存行為としての妨害排除請求に対する判決の既判力は、訴えを提起した共有者のみならず、他の共有者をも拘束することになる。

(2)持分権に基づく妨害排除請求権の行使は、持分権の行使は各共有者の権利行使に過ぎないものとして理解するため、判決の既判力は他の共有者を拘束しないこととなる。

 

家族制度に関する随筆(2)

2、家族の在り方が多様化しているから新しい家族制度が必要!?

 

(1)そもそも、日本における家族の在り方とは何か。中学校やらで習ったことを覚えている方もいるかもしれない。かつては大家族といって祖父母とも同居したが、後に都市圏で働き、都市周辺の住居へ帰るという生活様式となり、核家族が増えた。核家族とは親と子が同居する人達だ。

よくたとえに出されるのは、ちびまる子ちゃんの家族が大家族で、クレヨンしんちゃんの家族が核家族だ。

 

新しい家族制度を!という声があり、新しい家族制度を設けるべき理由として家族の在り方が多様化した、と主張される。

日本における家族の在り方について、私は現在の日本の家族が本来の在り方を忘れているものとみている。

日本人が本来の家族の在り方を忘れかかっている間に、別の制度にすげかえてしまおうというように見受けられる。

 

今回の新型コロナウイルス騒ぎのなか、武道やスポーツなど、鍛錬の欠かすことのできないものは、家族という社会の最小単位は家族同士で鍛錬を行うことができる。

もちろん、同居していても家族の誰かが感染してしまえば隔離が必要になるけれども、そうでない間はもとより同居しているのであるから接触をしてもよいだろうということである。

この家族がいるのといないのとでは随分と違うのではないだろうか。

他方において、たとえ家族であっても、感染拡大のおそれがあるから、下宿などしていて同居していなかった者が実家に帰るなどというのは好ましくない。

 

こうしてみると、同居していない家族と同居している家族ではずいぶんと違う。

大家族と核家族の違いを強調するのにはこのような非常時の支え合いができるだけではなく、普段の生活においても家族が扶養や心の安定などそのほか様々な支え合いをするものだ。

 

思うに、経済成長期までほとんどの女性が家庭にいたのは、家族への細やかなケアができたのは女性だったからではないだろうかと思う。

なぜ女性がそのようなケアができたかというと、まさしくそういうケアができるような教育があったからであろう。

かつて女子教育というものが存在し、女子教育においては家政というものがあった。

家政というのは家の中における労働全般を管理し、遂行することをいう。

ここでひとつ疑問がある。この女子教育は明治維新以後施されてきたものだ。前回の記事でも書いた通り、明治維新に伴って近代化がされ、その際に採用された近代民法は夫が家族を統率するもののはずである。

しかし、実際に統率するのは妻であった。しかも、かつての家制度においてさえ、女性が家長となることも不可能ではなかった。

これは、もとより家を夫の統率に置くということが日本においていまいち受け入れられていなかった論拠となる。

国政に喩えれば、妻が内閣総理大臣であって、夫は外貨を稼ぐ民間企業であったり渉外を行う外交官よくて外務大臣だ。条約の締結には少なくとも内閣の意思決定が必要だ。妻が財布が握っているとか、妻のことを大蔵大臣と呼ぶといったことはこういう面から来る。

※大蔵大臣というのは現在の財務大臣のこと。

 

このような実態を踏まえれば、女性の社会運動などと言って、女性が何か被害者であるかのような妄言は理解しがたい。家制度においてさえ、仮にある女性が家政を苦手としたとしても、その責任は夫の肩にかかってくるシステムになっていたわけだ。

 

では、かつてのように女子教育を施し、女性が家政を勝ち取る形が家族の在り方なのかと問われれば、それは大いに疑問である。

なぜなら、家政は変わらず家族の幸福のために重要なものではあろうが、女性が懸命に勝ち取らずとも、夫婦は対等であり、家庭の崩壊による不利益は双方が受けることになる。

家庭が家庭としての機能を失っている場合、その家庭を崩壊家庭と呼ぶ。

崩壊家庭において他方は平気な顔をすることもあるだろう。

 

このように考えると、家政教育は男女ともに必要であって、互いに支え合うのがもっとも自然な形であろうと思える。もちろんそれは家制度においてさえも同じである。

 

ここまでつらつらと書いてきたことは、家族が同居することで家庭ができ、その家庭の重要性を強調するがために家政について検討した、という文脈のつもりである。

 

(2)ここでやっと元の話に戻るが、新しい家族制度が必要な理由は、家族の在り方が多様化しているから、だそうだ。

これだけでは意味がよくわからないが、家制度の想定したような夫中心の家族や、現在の核家族のような夫婦と親子からなるという標準的な家族像を想定した規律は役に立たない、のだそうだ。

説明を読んでも意味が分からないかもしれないが、察するにシングルマザーやシングルファーザーを想定しているのだと思う。

家事育児労働は家政婦や保育所などがあれば足りるので、自らの家政能力に頼る必要はないという理解のようだ。

 

しかし、我々は感染症が拡大し、月単位ないし年単位で家政婦や保育所を利用できないときでも生活せねばならない。

こうして考えてみると、家政が生活関係の根幹を成すことがわかる。当然だ。ストレスのない生活をするには家を清潔にしなければならない。ストレスのみでなく健康面も含めてまっとうな食事も必要だ。かつては隠居したあとの祖父母も家政を手伝ったりしただろう。

また、育児に関しても家族の絆の強さがなければ家庭教育はより難しくなる。

相手が子にせよ、親にせよ。自分のために色んな事をしてくれている人が自分のために叱責するからいやいやながらも聞くのであって、そのような関係性になければただのうっとうしい小言である。

 

このように考えると、家事育児を家庭の外の者に委ねることがあったとしても、それはあくまで補助的なものであって、家政の中心は相変わらず家族に置かれている。

それはシングルマザーやシングルファーザーにおいてさえも同じである。

 

まして育児をほとんど赤の他人に任せるなど、我が子に何かあったら、あるいは何かしたら、最終的に誰か他人のせいにすればいいと思っているのではないかと疑わざるを得ない。

 

それでも親1人と子のみの家族、シングルマザーやシングルファーザーが標準的な家族像なのだろうか。助けとなる兄弟や祖父母でもいれば別だが、そうでない限りあまり現実的ではないと言わざるを得ない。

 

ここで、複数の奇妙な現象を思い起こす。

1つは、妻の不貞が明らかとなり、弁護士に相談して妻が子を連れ去る。親権を得れば養育費を取ることができるからだ。そして、夫婦が離婚し、子と同居しているという理由で妻が子の親権を得る。というケースをよく聞く。

このとき、シングルマザーとなるわけだが、これを標準的な家族像として据えようとしているのだろうか?と疑いを深める動機がある。

その動機とは2つめの現象、選択的夫婦別姓制度というやつである。

仮に、この制度の下で別姓を選んだとする。上記のケースにおいて実にスムーズにシングルマザーとなることができる。結婚していれば推定認知により夫の子となる。だから夫から養育費を得ることができる。

そして3つめの現象。頑として共同親権を認めない勢力がいる。共同親権が議論されることはあるが、日本では離婚の際には単独親権となる。普通に考えれば、単独親権の趣旨は再婚後も新しい家庭の子として生活できるようにするためのものであろう。そうだとすると、再婚しない間は例外的に共同親権を認めてもよいはずである。しかし、その勢力はそれを決して許そうとしない。

4つめの現象。ポリガミーやポリアモリーという考え方を推奨する勢力がいる。はっきり言って今の日本ではおよそ受け入れられない多重婚を推奨する勢力である。

もし多重婚が可能となれば、上記に示した例外的な共同親権が仮に制度として認められたとしても、親権を奪うことができる。

そもそも、多重婚によって日本の家族観を徹底的に破壊することができてしまう。そうすると家族の絆や深い愛情、そういったものが根本にあることによって築かれた社会秩序が破壊される。

この点についてスウェーデンが比較にあげられることがある。

http://www.seisaku-center.net/node/266

上記リンクの菱木昭八朗教授の発言で孫引用となるが、日本政策研究センターの記事を引用する。「子どもにとって必要なのは両親の愛情であり、よりよき家庭環境である。最近のスウェーデンの青少年犯罪統計の示すところからもわかるように非行青少年の発生源は欠陥家庭にあると言われている」という。

 

誰かの陰謀だなどと軽薄なことを言うつもりはない。

だが、日本という国を危険に曝す方向に進める気もない。

家庭が家族の心の安定に役立つことは人類共通の見識だ。その家庭を安定させる方向に政策をとっていくべきだろう。

せっかく100年以上かけて同姓が定着した日本においては、同姓とすることのハードルは極めて低い。そのなかで選択的夫婦別姓という政策は家庭の安定とは逆方向に推進しようとするものであってまったく合理的なものということはできない、さらにいえばそのような政策を支持することは理性的でないといわざるをえない。

 

家族制度に関する随筆、おわり。

家族制度に関する随筆(1)

論文のようなタイトルですが、そこまで大げさなものではありません。

家族制度に関する書籍を読んだときに思ったことを脱線しまくりながら書く程度のものです。

 

1.夫が家族を統率する!?

 

(1)何気なく家族法の基本書を読んでいると、ヨーロッパ諸国をはじめとする近代民法は夫が家族を統率するべきとする家族制度になっていたとあり、このことから大日本帝国はその国際潮流に合わせただけだとわかる。

これが日本は女性に差別的な国だった!と誹りを受ける不可思議な現象の正体である。

 

そういえば、明治では民法の制定をするよりも、民事訴訟法の制定の方が早かったと記憶する。

これは司法権の行使を確立することで、近代国家としての体裁をいち早く整える目的に出るものだった。

そこまでしてなぜ国際社会に参加せねばならないかについては色々言えよう。

 

話を戻すが、近代民法は夫が家族を統率することで、男性の財産権を守ろうとするものであったという。

なぜ「男性の」ものに限定するのかはよくわからない。

ある基本書によれば、労働は男がするものであるがゆえに、夫は労働し、妻は家事労働することになる。それゆえに「性別役割分業構造」が生じるのだという。

 

・・・大正時代、日本では工業化が進み、工場では男性も働いていたが、女性も工場で働き熟練の職人となったりもした。

私は機械化によって生産ラインが安定すると女性が活躍しやすくなるとみている。安定するまでは力仕事に頼るところが大きく、男手が求められて男性中心となりがちなのだと理解している。

このように考えれば、生産ラインの安定しやすいあるいは機械化しやすい産業が増えれば女性の活躍の場は増えるのではないだろうかと考えることもできる。

ここまで言ってみると、「そもそも工業ばかりが仕事ではない」と思うかもしれないが、現在においてさえも外貨を稼いでいる産業はほとんど工業である。そのため、工業によらねば日本の大いなる発展は望めない、ということがすでにある程度の証明がなされたと思う。

いずれにせよ、男性ばかりが働くべきというのは時代によって異なると思う。

平成のころ一時話題になったのでご存じかもしれないが、今の日本は大正~昭和初期頃にそっくりという話がある。関東大震災世界恐慌の影響で不況やデフレに見舞われたことに照らしてのものだ。

そういう時代には女性が労働者として活躍する者なのであろうか。大正頃、女工が活躍したと同じように、今、女性が労働者として活躍する時代なのかもしれない。

 

元の話に戻るが、そういったわけで、時代によって男性が労働者になったり女性の方が労働者になったりして変わるものだと理解しているので、「性別役割分業構造」という言葉にいまいちピンと来ないところがある。

 

そもそも、機械化が不十分なときには腕力のある男性が労働力として重宝される、とすると腕力のない男性はどのみち労働力としては要らない。

そうすると「性別役割分業」ではなく「腕力役割分業」が正鵠である。学問的な用語であるならより正確な表現を用いた方が良いと思う。

 

(2)と、ここまで考えておいて、「性別役割分業構造」を別の角度へと考えたくなる。

 

今見たような、女性が労働者として活躍する時代は、どちらかというと経済的にはあまりよくない時代のように思う。

どちらかというとどころではない。大正時代の平均寿命は43歳かそこらだったりする。これは過酷な労働や子だくさんのためだろう。

もちろん、その過酷な労働と子だくさんのおかげでその後の繁栄があったわけだが・・・。大正時代は極めて過酷な時代。現在も経済的には決していい時代とはいえないだろう。この失われた20年の遅れを取り戻すことは、大正時代と同じように臥薪嘗胆を合言葉に耐え抜くような、過酷な時代を経験するくらいで取り組まなければ不可能である。

いわば、憚らずにいえば、今の時代はその傷を見ないことにしてなんとなく過ごそうとしているわけだ。

 

こういったことに思いを馳せると、「性別役割分業構造」が自然と現れて維持されている社会の方が経済成長のスピードが維持される社会なのではないか?という疑問がわいた。

もしそうなら、「性別役割分業構造」が現れることを懸命に叩く人達は、日本の経済成長を懸命に妨害する人達ということになる。

だが、「性別役割分業構造」が我々の幸福に役立つと考えるのは、やはり現代においては突飛な考えに過ぎないと思い至る。

私は男の方が基本的に腕力があるということを前提に「性別役割分業構造」を理解した。もちろん他の差異ないし傾向もあるかもしれないが議論が複雑になるので腕力だけに絞る。工業において腕力が活躍する場はまだ多くはあるが、そうではない場もずいぶん増えた。今に始まったことではないが、むしろ機械が産業の中心的役割を果たしているといえる。

そうすると、一般的には「腕力役割分業構造」の考え方も役に立たないのが現在なのであって、結局いらないものなのかもしれない。

 

「一般的には」と留保を付けたのには理由がある。

山林を利用する権利に入会権というのがある。ある村においては、この入会権を持つ者を長男とする慣習があった。

山林の入会権を使う者が一般に腕力のある者とする、という規律は不合理なものなのか?私には不合理には思えないのだが、判例はこの慣習を否定した。

法的には慣習は一般的な規則と違うがために、慣習として認識されるのに、その特性や背景に迫ることなく否定するのはばかげている。

 

思ったことはまだまだあるのだが、すでに長く書いたのでひとまずここまでにする。

同調圧力

 同調圧力という造語が各所でみられるが、その言葉の使い方は甚だしく不誠実なことが多い。

 自分には道理があり、周りの方が道理に合わないにもかかわらず、同意しなければ不利益を被るという場合にのみ同調圧力という言葉を使うべきだと思う。

 そうでなければ、自分こそが道理に合わないくせに、自分が道理に合わないことを言うことが憚られるために同意した場合にまで「同調圧力がすごい」だなどと愚痴を垂れるのは不誠実である。素直に自らの過ちを認めるのが誠実であろう。たった一言、真心から「そうですね」と言えばそれで足りることである。 

 また、不利益を被らないのに自分の信じる道理を言わないのは、同調が強いのではなく、道理を言えない自らが弱いのである。自分の道理を言うことができるのに不利益を被るがゆえに言えないという場合こそ、それでも言わなかったお前が悪いというのは酷な場合なのである。そもそも言えなかっただけで不利益を受ける背景もなかった人が同調圧力だなどと被害を主張するのは不誠実だ。

愛国者は弁護士になれ。

今、弁護士といえば売国的な人が就く職業として貶められている。

売国であることに価値の重きを置く連中が多いのなら、愛国であることに価値の重きを置く者が同等にあるいはそれ以上にいなくては国民ないし国益を守ることはできない。

正義の象徴が盾であるなら、裁きの象徴は秤である。いま、秤は左にばかり傾いている。これでは裁きは不公平である。

これを不公平であると主張し、立論するのは他でもない愛国者である我々なのである。

弁護士という職業を貶めるのは言語道断だ。

くやしかったら、愛国者法曹界に輩出しなければならない。

それをする気がないなら、古来の日本人を虐げる法的手段に屈し続ける運命を受け入れろ。

そして、その受け入れはまさしく売国に外ならない。

私の思う、剣道体験会のやり方

 私の考えとしては、剣道体験会をするとき、どうしてもやっておきたい点と注意点は次の5つです。

 

1、礼儀作法。

 細かくやる必要はないですが、少なくとも神前や指導者、お互いの礼をしたり、立ち合いが礼から始まり礼で終わる、ということをやってもらいます。

 本来であれば、正座の仕方、手の付き方、礼の角度の違い、立ち合いでは九歩の間を取り、蹲踞しつつ構える等の多々の指摘があり得ますが、そういったことは削ぎ落として、中核を成す部分だけ体験してもらえれば良いと考えます。

 もちろん、時間さえあればしっかりと指摘する方が良いと思います。

 

2、有段者の打突を見る。

 有段者の厳しい打突を見たことがあるのと、そうでないのとでは、取り組む姿勢が変わります。

 有段者の打突を見せるためには有段者と有段者の打突を受ける人が必要です。

 有段者の打突を受ける人は、少なくとも剣道経験者である必要があります。できれば有段者が望ましいです。

 

3、面、小手、胴を打つ。

 できれば道着や袴を着て欲しいですが、動きやすい服装であれば、竹刀を振るのに差し支えありません。

 また、子供用の竹刀と大人用竹刀は長さが全く違います。

 大人の有段者や剣道経験者でも、普通は子供用竹刀を持っていないので、子供の参加者を想定するときは用意しなければなりません。

 子供用竹刀については剣道具を扱っている武道具店なら相談に乗ってくれると思います。

 

4、応用技を一つ以上打つ。

 応用技をすれば、スローモーションの面打ちに対しての抜き胴がほとんどとなるでしょうが、そのときの体験者のできそうな技を見極め、できれば柔軟に対応して他の技もやるとよいと思います。

 

5、その他一般的な注意点

 怪我のないように準備運動は欠かせません。特に、冬はアキレス腱の断裂のないようにしっかりと伸ばすことが肝要です。

 また、竹刀のチェックも必要です。本来であれば竹刀を使う本人が竹刀に割れやささくれがないか等チェックするものですが、体験会の参加者はいわば素人がほとんどでしょうから、実施する側が逐一チェックするしかありません。

 

 最後に、私ならば、体験会の最後には次のようなことをいいたいと考えています。差し出がましいようですが、どうぞご参考までに。

「今日、みなさんには色んな技をやってもらいました。なかでも、抜き胴という技は印象深かったのではないでしょうか。」

「抜き胴というのは、抜き技という種類の技です。抜き技一つにしても、面抜き面、小手抜き面などの種類があり、そもそも技の種類には、抜き技の他にも、二段技や出頭技、巻き技、打ち落とし技、すりあげ技、返し技などの種類があります。本格的に剣道を始めるといろんな技を学ぶ機会があります。」

「しかし、本格的に剣道を始めると、もっともっと強くなるために、より厳しくて辛い稽古や、一つ一つの積み重ねで上達するために、おもしろくないとても地道な稽古をするようになります。」

「それでももっと強くなりたい、それでも自由自在に色んな技ができるようになりたい、あるいは、剣道の精神を身に付けるんだという子は、是非とも剣道団体に加入して本格的に稽古を始めてくれたら幸いです」

「どこの剣道団体の先生でも、あなたが強くなるための、あなたが上達するための稽古をしてくれます。しかし、もう一度言います。本格的に剣道を始めると、とても厳しいですし、つらいですし、おもしろくない地道な稽古もたくさんあります。たとえば、今日はやりませんでしたが足の動かし方。すり足あるいは送り足といって、左足が右足を追い越さないように動かします。とても地道で、しかも難しいです。そういった稽古でもやり抜くんだという強い意志のある子は、是非ともお近くの剣道団体に問い合わせて本格的に剣道をやってくれたらと思います」。