令和を駆け抜ける

誣告と讒言を憎む評論。

差別に関する随筆

そもそも差別とは

 差別は多義的な用語です。

 つまり、差別と一口に言っても、複数の意味があります。

 差別の意味を煮詰めれば次の3通りの意味に限定することができるでしょう。

 

 ①差別とは、ある基準に基づいて待遇に違いをつけること。

 この概念はとても広く多くのものが該当します。

 たとえば、イケメンが好き! というと、この①の差別に該当します。イケメンという基準に基づいて好き嫌いという待遇に違いがあるからです。

 裏を返せば、上記のような他愛のないものも①の差別に該当するのだから、①の差別に該当するからといってそれ自体は悪いこととは限らないといえます。

 ②差別とは、特定の人々への蔑視に基づいて待遇に違いをつけること。

 差別問題が深刻な差別として認識されたのはアメリカにおける黒人奴隷とそれに由来する蔑視があり、この蔑視に基づき待遇がきわめて不利益であったことです。

 なかには深刻な差別があったものとしてわざわざ捏造して、その捏造した問題に由来する蔑視があると主張する変な人達がいたりもします。

 また、蔑視というものが正当性を持つこともありえます。犯罪者集団が犯罪をやめないときに、その犯罪者集団が倫理に悖る連中だと毛嫌いされて不利益を被っても仕方ありません。

 ちなみに、ここでの差別も蔑視だけでは成立せず、待遇の違いがつかないと差別になりません。

 ③差別とは、不合理な基準に基づいて待遇に違いを付けること。

 ③の差別とは逆に「合理的な」差別は、「差別と区別は違う」という表現を借りれば区別に該当します。

 具体例を出しますと、子供の頃、つばめ君が遊園地のジェットコースターの列に並びました。いよいよ自分の番が来てジェットコースターに乗れます。しかし、身長制限のために乗ることができませんでした。つばめ君は悲しそうに去っていきました。

 これは身長による差別ではないでしょうか。

 身長制限の目的は搭乗者の身体・生命の危険を回避し、安全を確保するという正当な目的に出るものです。すなわち、「合理的」な基準に基づくものといえるため、不合理な基準に基づく差別には該当しません。

 また、①の差別を「差別」と呼び、ここでの③の差別を「許されない差別」と呼ぶことで、多義的な差別の議論を整理できます。

 ただ、③の差別をあえて差別と呼ばず、「区別」と呼ぶのが無難だと思います。

 

各差別概念の関係

 ここでの差別の各概念の論理関係としては、①の差別には②も③も含まれますが、②と③は必ずしも重なり合うわけではありません(図参照)。

f:id:kadomichi:20191209060359p:plain

 

 この図はベン図と呼ばれ、論理関係を説明するときによく使われます。

 ②の差別は蔑視に基づくのだから、必ず③の差別の不合理な基準に基づく差別に含まれるのでは? という反論を想定できます。


 しかし、純粋に論理関係を整理しようとしたとき、「合理的」な基準に基づく差別であっても、その差別がさらに蔑視も含まれていることがありえます。

 そして、もちろん、蔑視に基づく差別であり、かつ、不合理な差別にあたるものも考えられるわけです。

f:id:kadomichi:20191209062754p:plain

桃色の部分が蔑視+合理的な差別、黄色の部分が蔑視+不合理な差別。

 このように、差別という概念はその意味自体が多義的であり、どの差別をもって許されないとするかという判断基準を一致しなければ、議論がかみ合うことはありません。

 

差別主義者による差別主張

 昨今の差別主張は、わざわざ自らを貶めて差別を叫ぶ変なもののように思います。

民族差別

 従軍慰安婦強制連行(後に性奴隷強制連行と呼ぶ)などという民間業者による募集をあたかも軍による強制とする捏造があったり、徴用工についてもその実態は募集をかけて行ったものであるのに強制されたと捏造されました。

 こういった深刻な差別があったことにして、その差別意識すなわち蔑視が今でも続いているという論調をもって民族差別を主張するわけです。これを差別主張Aと呼ぶことにします。

 また、ヘイトスピーチに関しても、ヘイトスピーチ=差別表現とすり替えられていますが、ヘイトとは憎悪の意味であり、ヘイトスピーチとは憎悪表現を指していました。

 もちろん、蔑視に基づく憎悪表現もありうるわけで、ときに差別表現も含まれうるでしょう。しかし、ここにいう差別の意味は、先に述べた②の意味に該当します。

 すでに述べたように蔑視に基づく差別にも合理的的な差別もありえます。すなわち、合理的なヘイトスピーチもありうるわけです。

 合理的なヘイトスピーチにどんなものが考えられるかというと、たとえば、従軍慰安婦強制連行捏造や徴用工捏造により日本の名誉を徹底的に貶める集団があるとします。そのような集団の行為は、不実によって日本の国際的な発言力や影響力を削ぐ目的に出るものであり、日本国民に対する不実による侮辱のなかでも極めて悪質であると非難するとします。

 そのような非難をしても、その集団が不実に基づく主張をやめなかったとします。そこで、その集団を倫理に悖る不逞の輩という蔑視に基づき、その集団のことを品位の劣った卑怯者だと主張したとします。

 これは倫理に悖る行為を許さないとする目的に出るものであり、合理的なヘイトスピーチといえます。

 川崎市で本邦外出身者に対するヘイトスピーチを罰する条例が成立する見通しとのことですが、これでは合理的なヘイトスピーチさえも萎縮させることになります。

 このように、自ら不実によって日本国民を貶め侮辱することで憎悪される要因を作っておきながら、反撃されれば差別を叫ぶわけです。これを差別主張Bとします。このとき反撃した者は罰せられるおそれがあるのです。

 ツイッターでは「このままでは日本人は【何を言っても許されるサンドバッグ】にされます」と表現する方もいましたが、その通りのように思います。

 今回のことで厄介なのは、世間が差別主張Aと差別主張Bを混同するおそれがあることです。

 

 ちなみに、私はこの問題は表現の自由の問題ではないかと思っています。しかし、表現の自由に対する不当な制約だ、と主張する人は少ないように思います。それはやはり、ヘイトスピーチをする自由があると主張しなければならなくなりますから、それは無理だろうと考えているのだと思います。

 

男女差別

 女性の社会運動を推進する人たちは、「女性を家庭に閉じ込めるな」という意味不明な主義主張を持っていたりします。

 実際にはただの人間関係に疲れているだけではないでしょうか。

 そもそも、女性が家にいてもいいというのは、女性が勝ち取った権利です。男性は子供が産めませんから、女性がいつでも懐妊して子を産めるよう、男性が働いてお金を稼ぎ、女性が家にいて家事・育児をするのが効率的でした。

 しかし、庶民はそうもいかず、江戸時代でも庶民の女性は社会に出て働いていましたし、明治以降の大正時代を迎えても工業化が進む中で女性は工場で働くなどしていました。

 次第に裕福になるにつれて、女性は家にいることができるようになりました。

 このまま女性が子供を産む環境が整ったままではどんどん人口が増えると危惧したのでしょうか? 戦後しばらくして女性の社会進出を叫ぶ人達が闊歩します。

 ちなみに、女性が社会進出しても少子化の原因にはならないと豪語する人もいるでしょう。しかし、よほど裕福な社会でない限り、懐妊・出産の機会は確実に減るのではないでしょうか。

 せっかく、効率性と人命の誕生のためというこれ以上ない正当性をもって家にいることができる権利なのに、これをあたかも悪であるかのように踏みつけて、「家庭に閉じ込めるな」だの、「女は子供を産む機械じゃない」だのといって自ら女性を貶め、神聖な新たな生命の誕生さえも機械などといって貶めるのでしょうか。

 女性が自ら女性を差別し貶める、きわめて悪質な言論が多いと断ぜざるをえません。

 

 私は思います。

 少子化を止めるために最低でも3人は産みましょうとスピーチした校長が責め立てられるなど。3人も生まれたらおめでたいのではないでしょうか。それともおめでたいと言うのはただの嘘で、本当はどうでもいいのでしょうか。人命は尊いです。その人命を産める女性は尊いのです。なぜそれをあえて貶めるのでしょうか。それとも、本気で人命は軽いと、いらないのだと、思っているのでしょうか。「私の自由のためならば、人命など生まれてこなくてよい」と堂々と言う勇気もないくせに、卑怯にもほどがあると思います。

 あと、子供を産めない人のことも考えろなどといいますが、価値あることはその価値を忘れないよう、価値があるといわねばなりません。お世話になったら必ずお礼を言うのと同じです。子供を産めない人にもできることはあると思います。迷いなく自分の道を追求すればよいはずです。わざわざ根性悪のように尊いものを尊いと言うな。私にはないから気分が悪いなどというのは人格が劣っているからにほかなりません。

 

あとがき

 差別主義者による差別主張としては他にも同和問題などありえますね。

 大した肩書もない私の書いた文章をここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。